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2011年03月03日

赤毛布の男と釣鐘マントの男

ネットの掲示板などでたまに見かける、「赤毛布の男」という未解決事件を語った都市伝説。
残忍なうえ、手口が凝っていてなかなか怖ろしいのだが、寓話的な美しさもあって、妙に惹きつけられるエピソードだ。ネットで流布されてる内容は以下の通り。

福井のある村で、ある小売商の家に夜半10時頃、訪問者があった。

本家からの使いです、といって表戸を叩くので、主人が起きて出てみると、赤毛布を頭からすっぽりかぶって、本家の提灯を持った男が軒先に立っている。本家で急病人が出たから、呼びにきたという。
 
彼は急いでその男とともに家を出ていった。
 
2、3時間後、また戸を叩く音がした。
 
出ていくとまた赤毛布の男である。彼は「病人はとても朝までもたなそうだから、女房も呼んでくれと言われ、迎えに来た」と言った。

女房は子供を親しい近隣の家にあずけて男と一緒に出ていった。
 
すると1,2時間たって、今度は子供を頼んだ隣家の戸を叩く者がいる。また赤毛布の男。
「両親が、子供も連れてきてくれというので迎えに来た」
と男は言った。

しかし、こんな夜中に子供に風邪をひかせては大変だし、もうぐっすり眠っているから明日にしておくれ、と言った。

男は再度頼んだが、彼女は頑として応じなかったので、帰っていった。
 
ところが数日後、この夫婦が惨殺されて河に投げこまれているのが発見されたのである。
 
犯人があの赤毛布であることは明らかである。
 
手口は、ひとりひとり誘い出すなど、念が入りすぎていることや、子供まで誘い出して殺そうとするなどから、恨みの深さがうかがえる。

なお、この事件は迷宮入りであり、犯人はわかっていない。



最近、松本清張の作で「家紋」という短編を読んだのだが、この話とほとんど同じものだった。
というか、この都市伝説は、この短編をさらに短く改変したもので、細かい部分がいろいろと違うだけだということが分かった。
ということで、松本清張の作が現実の殺人事件を基にしたものでない限り、この事件は実際のものでないばかりか、フィクションの二次創作ということだ。

ちなみに、「赤毛布」ではなく、原作では「頭巾を被った釣鐘マント」ということになっている。
都市伝説の方が不自然に思えるのがこの部分で、赤い毛布なんて被ってたら、気持ち悪くて警戒されるはずなのだ。
また原作では、男が2度来るのに対し、都市伝説では3度来ている。
このあたり、改変というよりは、うろ覚えで書いているので、いろいろ変なことになっているような気がする。
この作品は1990年にスペシャルTVドラマとして「火曜サスペンス劇場」で放送されたのだが、いろいろ問題があって(詳しく言うと内容のネタバレになってしまう)、再放送やソフト化ができなくなってしまった、いわくつきの作品であるらしい。

松本清張の原作では、このエピソードの後日談が描かれる。
そして、後半に犯人の驚くべき影が、少しずつ明らかになってくるのだ。
非常に不気味で美しく、しかも推理小説としても面白く出来上がっているのでおすすめ。




・松本清張「家紋」は、短編集「死の枝」に収録されている。


・市原悦子朗読のCD版
松本清張「家紋」 (新潮CD)



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2010年03月15日

J.K.ユイスマンス「彼方」にあるものは…

昨日で節目の年齢になっちゃった。もう「ボク」とか言えないなぁ。あ〜あ。まあ最近は言ってないけど。

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んで、今読んでるのがJ.K.ユイスマンスの「彼方 (創元推理文庫)」。

大学時代に図書館で「さかしま」や「大伽藍」などを借りて、もう興奮しちゃって、何度も読みたいから「さかしま」は新たに買い直したくらい、ユイスマンスは大好きなんだけれども、なかなか書店で他のタイトルが見つからなく、しょうがないから何年越しかでやっとAmazonで購入。何故か「創元推理文庫」で出てるのが謎だけど。
バタイユもマンディアルグもリラダンも好きだけど、「彼方」を読みながら再確認したけれど、ユイスマンスは私にとって、さらに重要な作家になった。
なんでこんなに興奮するのか考えてみた。

「さかしま」を読んでいる最中もそうだったけれど、時代も地理も文化も、自分とは全く異なるこの作家の言っていること、世界の認識であったり、関わり方であったり、疑問に思ったりするあれこれが、何の違和感も無く、分かりすぎるくらいに自然と理解できる(少なくともできてると思っている)のだ。
理解のできる範囲の作家だから良い、という意味ではなく、自分と同じように考える人物が、こんなに知性的で洗練され、さらに恥ずかしげも無く自らをさらけ出し、このような芸術を実現させていることに感動し、希望を与えられるのだ。
自分は周囲に合わせて変わらなくて良いんだ、ただ技術を高めれば、この境地にたどり着けるんだ、と思わせてくれる。
それほど、彼の作家的なプライオリティーには共感できるし、素晴らしいと思う。

ところで「彼方」は、ジャンヌ・ダルクの部下として騎士団を指揮しながら、後年は夥しい数の幼児拷問殺害の罪を犯した貴族、ジル・ド・レエの伝記を執筆しようとする男の物語だ。
男は、何故レエがそのような蛮行に及んだのかを考えるのだが、なかなか答えが見つからない。
それは、その犯行があまりにも悪魔的で残忍すぎるからだ。
そこで登場する概念が、「彼方」なのだ。
つまり、ユイスマンスが執筆していた当時の、多くの殺害事件を含めて、このような非人間的に思えるような行為は、もはや人格形成や貧富の問題からきているのではなく、「彼方」からもたらされているという考えだ。

読んでいて、ふと思ったのだが、このような凄惨な事件というのは、もちろん我々の時代もあって、その都度メディアが「過去に例を見ない犯行」という末世感を強調している。
昔もこんな事件はあったんじゃん。…っていうか、昔のほうが異常性のスケールがでかいよ。
日本においても、殺人事件を含めて、犯罪率は年々減少傾向にあると聞く。
ということは、この種の残忍さというのは、人間という生物の原初に辿れば辿っていくほどに顕著になっていくのではないのだろうか。
そして、現在の「人が人を殺さなくなっている」という事実は、「人が人間性を取り戻しているから」ではなく、「人が本来の人間性を喪失してしまっている」結果なのではないだろうか。
もしそうだとすれば、事態は多くの人々が信じ込まされてしまっている概念とは大分遊離しているということになる。

人は、今では「人間的」とされている「社会性」の彼岸へ、船を進めている。
そして、我々が恐怖すべき悪魔のような「人間性」は、ユイスマンスの時代より、少しだけ「彼方」でこちらを見つめている気がする。

  
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2010年01月28日

残酷で心を打つ、小川未明の美しい童話

小川未明童話集

小川未明童話集 (新潮文庫)」をはじめて読んだ。
代表作の「赤いろうそくと人魚」をはじめとして、25話の短編童話が収録されている。

日本童話界の重鎮…ということなんだけれども、意外と大人向けの内容だった気がする。
優しい語り口に見せて、童話独特の「三人称の冷徹さ」が、サディスティックなまでに突き刺さってくる。
残酷な作劇といえば、泉鏡花なんかをとりあえず思い起こすけれど、泉鏡花を読むときは、ある程度こちらも覚悟して読むところがあるので、ショックがさほどまで大きく響かないと思う。
でも、童謡の優しげな語り口で、死を描かれたり、性的なほのめかしなどがあったりすると、描かれている以上の背徳感を感じてしまったりして、心臓がちょっとずきずきとする。

いちばんキツかったのは、姉と弟の別れを描いた「港に着いた黒んぼ」(今は、「アフリカ系」とか呼ばなければなりませんね)。
盲目の少年と、その美しい姉が、港町の路傍で笛を吹き、踊って、日々の生計を何とか立てている。
そこに町の名士がやって来て、姉を買おうとする。
もちろん童話なので、何のために姉を屋敷に連れて行こうとするのかは、はっきり言わないのだけれども、まあ明らかですね。
どうも、彼女はちょいちょい、金持ちに買われているらしい。
「一時間だけ」と約束して、道端に弟を残し、彼女は屋敷に行ってしまうのだが、一時間で済むはずもなく、だいぶ遅れてその場所に戻ってくると、弟がいなくなっている。
狂ったように弟を探す姉の服のえりには、もらったばかりの宝石が輝いている。
その間、じつは弟は白鳥になって、南の海の彼方を目指して飛んでいってしまっていたのだった…というような話。

まあ、ファンタジックな箇所もあるので、童話といえば童話なんだけど、大人向けの部分は大人向けでしょう。

この話、後日談があって、ある日、港についた商船に乗っていた黒人少年が、姉の姿を見て、「あなたは、はるか南の島で、盲目の男の子の吹く笛に合わせて踊っていた娘さんではありませんか」という。
娘は驚いて、「それは人違いです」と言ったのだが、たしかに「あなたでした」と、その少年は言う。
さらに、「南の島の娘さんは、たいそう美しいので、島の王様が、金の輿を持って迎えに来たけれども、娘は弟がかわいそうなので、お断りしたのです」と伝えた。
姉は悲しんで、「ああ、もう一人、この世には自分というものがあって、その自分は、わたしよりも、もっと善良な自分なのだろう、その自分が、弟を連れ去ったのだ」と、胸が張り裂けそうになって後悔する。

すごくサディスティックな、それでいてすごく美しい物語だ。
まいりました!
一話ネタバレしてごめん。



ラベル:小川未明 童話
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2009年12月16日

黄色い本と白い本と赤い本

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フランスの幻想文学が好きな私は、先日古本屋で、前から読みたかったマンディアルグの最初の長編小説、「オートバイ」を見つけて小躍りした。
そのついでに「チボー家の人々」5巻セットを見つけて、高野文子氏の漫画、「黄色い本」のことを思い出した。
「チボー家の人々」を読んでいない(長いし!)から、その印象しかないだけなんだけど。

「黄色い本」は、田舎のセンシティヴな女子学生が、図書館にあった「チボー家の人々」に耽溺しているような日常のおりおりを、丹念に描いた物語だ。
物語の中の彼女は、「チボー家の人々」の登場人物、ジャック・チボーと、夢の中で友達になる。
しかし、高校を卒業し、メリヤス工場に就職するときに、決別を決意させられることになる。まるで、プーさんとクリストファー・ロビンのように。

多くの人々は、学校を卒業するタイミングで、ある程度自分の夢に折り合いをつけて、現実を生きていく。
でも、本当にそれでいいのか。いつまでも夢を持ち続け、夢の中に生きることは罪悪なのか。
ビジュアル的には比較的地味だけれど、せつなさと希望を描いた、「黄色い本」は、静かな感動作として、高野文子氏のなかでも傑作のひとつと言えると思う。
「チボー家の人々」を「黄色い本」と呼ぶセンスも素敵。

ところで、古本屋で見つけた白水社のハードカバー、「チボー家の人々」の背表紙を見ると、本当に黄色かった。
しかし、同じ白水社のハードカバーでも、横に並んだ、もう少し古いものになると、白い色だった。
だから、実際に高野文子氏が「チボー家の人々」を図書館で読んでいたときのバージョンは、黄色い頃のものだったのだなぁ、と思うと、なんとなく感慨深い気がした。

ちなみに、現在の新しい白水Uブックスの「チボー家の人々」のカバーは、赤かった。
まあ、赤もいいじゃないか。



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2009年11月04日

高階秀爾「20世紀美術」を読むと現代美術までの流れが本気で分かる。

高階秀爾「20世紀美術」

高階秀爾先生は、美術界において、私が最も憧れる人物のひとりです。講演にも行きました。
何が素晴らしいかって、類まれな感性はもちろん、その分析力の異常なまでの確かさだと思います。
分析対象に深く深く切り込んでいく凄みもあるけれど、一番凄いのは、その無駄な部分を極限までそぎ落として、非常に平易なかたちで表現する、という部分。

きっと、こういう人は大脳がプリズムでできているんでしょう。
おしなべて、複雑な理屈や言葉遊びをするのに夢中な評論家が多いなか、「極めて重要なことだけを簡単に説明する」ことのできる非常に数少ない貴重な存在です。

私も、大学等で数多くいろいろな先生による美術の講義を聴いたけれど、失礼ながら、ろくでもない先生方がほとんどで、だいぶ時間を無駄にしてきました。
現代美術についても、全く要領を得ない講義がほとんどで、「こんな人がこんな面白いことをやってる」みたいな、ちょっと調べれば誰にでも言えるような羅列的ものが大体なのではないでしょうか。
それは、書籍についても言えることです。

そういう状況のなか、得難い良書がこの「20世紀美術 (ちくま学芸文庫)」なわけです。
私は、だいぶ以前より購入して、ゆっくりと読んでいき、やっと最近読了しました。
ほとんど誰にでも理解できるほど簡単なので、ちょっと拍子抜けしてしまうのですが、本気で現代までの美術(主に絵画)作品の概要が分かってしまいます。
よく、「絵は、観る人の数だけ真実があるんだよ」というおためごかしがありますが、そんなものはバカの言い訳なんだということを痛感しました。

印象派が何故生まれたか、キュビズムとは何であったか、コラージュが出現した意味とは何か、抽象芸術のそもそも、シュールレアリスムとは?
このような、私達が「知ってるつもり」だった断片的なあれこれの知識が、じつは一本の線上にあった、ということが分かります。

今まで、周囲が「すごいすごい」と言うから、何となくすごいと思っていた、近代のエポック・メイキングな美術作品たち。
何故それらの美術作品が偉大か?という素朴な疑問も解決されます。

紹介されるアーティスト達をはじめとして、多くの人間達が、美術という大きな世界の道を切り拓いていったんだという、確かなビジョンが、体系的に、鮮明に浮かび上げさせられます。

こけおどしの文句などではなく、その論理性によって、深く感動させられてしまう本書は、美術に関心が無い人もぜひ読んでおくべき、必読の書であると思います。

本物の評論とはこういうものだ、という自信と気概を感じました。


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2009年07月29日

ダンテの構築する地獄

神曲
ダンテの「神曲-地獄篇-」の文庫を途中まで読んでる。
作者であるダンテ自身が、地獄の各所を巡り、読者にその内容を紹介していくといった形式の物語だ。

河出書房から出ている平川祐弘氏の現代語訳は、非常に読みやすく、またチャプターごとの内容解説、注訳が素晴らしく面白い。
例えば、「地獄の外門が現在も開かれたままになっているのは、イエスが死後、辺獄に赴いた際に、それを破壊していたからだ」とか、「森鴎外の歌に、『死なんことはいと易かれど我はただ冥府(よみ)の門(かど)守る犬を怖るる』というのがあるが、これはケルベロスを指している」など、キリスト教に明るくない日本人には、とても面白く分かりやすい情報がいっぱいだ。
私の大好きなギュスターヴ・ドレの版画が、ちゃんと挿絵として使われてるのも満足。

だが、この小説(詩集)がとても面白く感じる一番の理由は、ダンテの狂気にあるのだろうと思う。
もちろん、地獄を巡り、様々な罪人・亡者を見てゆくことで、人間の生きる指針や哲学について思考していくというのが眼目であるけれど、その亡者たちが、実在の人間だったりして、「ああ、これは、ダンテが嫌いな人間や、許せない人間を地獄に堕ちたことにして、復讐をしているんだな」と思わせる。

それは、死者を告発すること、鞭打つことに他ならないわけで、しかも、このたくらみはちゃんと露見するように書かれている。
こういうことを書く以上、ダンテ自身の人間性や能力も裁かれるべきで、それこそがこの作品が全編キルゾーンに踏み込んでいるということを物語っている。
我々はこのやばさ、熱さ、あるいは冷たさに戦慄を感じるのだろう。
これは、もっと以前に読んでおくべきだった。

そういえば、故・石井輝男監督の『地獄』という映画は、宮崎勤やオウムの麻原の、地獄で苦しんでいる様を描いていた。
『地獄』は、石井輝男監督にとっての「神曲-地獄篇-」だったんだな。

「神曲-地獄篇-」に触発されて、また、マイケル・ジャクソン死去の報道に接して、最近は、自分が「死」の方向に神経が向いている気がする。
文学をはじめ、あらゆる創作物は、「生と死」のテーマが根底にあるべきなのかもしれない。
「死」の概念をどこかで忘れている作品というのは、決定的に強度が低い。


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2009年04月13日

「冬の王」になりたいな。

冬の王

ランド・ハンスという作家の、「冬の王」という、森鴎外が訳した短編がある。
デンマークの海岸沿いにある村落に、ひとりで暮らしている男の物語だ。

この男、夏の間は、都会から避暑にやって来た観光客の靴を磨いたり、別荘の雑用をしたりして生計を立てている。
しかし、厳しい冬がおとずれて、村落から人が消えると、彼は「冬の王」となる。
彼は、厳しい自然に囲まれた孤独な生活の中で、宗教哲学や自然学に傾倒し、瞑想したり、思索に耽る。
誰もいない海岸で、王者として君臨するのである。

私は昔から、こういった人間社会から隔絶された中で、隠者生活をして過ごしたいとよく思っている。
それは例えば、北欧の海だったり、断崖の古城だったり、山深い僧院だったり、ミノタウルスに守られた地下迷宮だったり…そんなところで、何十年も書物に囲まれて暮らしてみたいのだ。
日本の牢獄は嫌だけど、バスティーユとかそういうところだったら、何年か幽閉されてみたいなぁ、とも思う。
ああ、もっと引きこもりたい。
ハムとチーズとウィスキーとワインは、たっぷり備蓄しなければ。

「冬の王」は、そういった隠者的な憧れを倍加させるような、海、海獣、土地の空気といった描写があまりにも素晴らしく、大好きな短編です。
青空文庫当該ページ、『「冬の王」ランド・ハンス』でも読めるので、興味のある方はぜひご一読ください。



ラベル:森鴎外 冬の王
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2009年02月08日

夫の留守中に人妻に会いに行く「北方三国志」

三国志 (1の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)

北方謙三版「三国志」を、とりあえず1巻、読んでみた。
北方謙三といえば、ハードボイルド小説を多く書いてる人で、半裸の女性に囲まれてニヒルに笑う自分の写真を撮らせたり、男性への人生相談で、よく「小僧、風俗へ行け!」などと言っているおじさんである。

やはりその人が描く「三国志」は、熱血的な男の生き様を重視していた。
とくに1巻は、劉備、曹操、孫堅、呂布などを、「本物の男とは何か」といったことを中心に、英雄的に描写している。

騎兵などの用兵については、「正史」に無い部分を想像力で補って、ちゃんと兵の動きや、細かい戦術なんかも表現できている。
劉表軍の歩兵達の真ん中を、孫堅軍の騎馬隊が通り抜けて両断し、軍の機能を損なわせるといったようなところはなかなか楽しい。

だが、読み進めていくうちに、「北方謙三ってあんまり勉強してないんじゃないの?」という部分が続々出てくる。
例えば、張魯という教祖が興した宗教を、ナレーション(地の文)で「五斗米道」と紹介している。
この名前は、五斗の米を払うことから起因した、あくまでも「通り名」でしかないのに、そのことについての説明がないのは不自然だ。
ちなみに、湖南文山の『通俗三国志』を参考にしていた「吉川英治版三国志」でさえ、「仮にこの宗教を、五斗米道と呼ぼう」と、ちゃんと、わざわざ断りをいれて書いてある。
「五斗米道」なんてマヌケな名前がオフィシャルなもののわけがないじゃない。

一番あきれたのは、三公の司徒、王允が、董卓と呂布の離間を狙って、呂布の妻に嫉妬の情を起こさせるよう、デマを吹き込むという場面。
王允は、呂布のいないとき、「呂布の妻に絹を贈る」という名目で、呂布邸の夫人に会いに行って、お茶を飲みながら会話するという設定になっている。
だが、こんな状況はありえないだろう。

当時の中国は、曹丕が戯れに、群雄が集う酒の席で、自分の奥方に酌をさせ、諸将を面食らわせた…というような故事があるように、妻を他人に見せるということさえタブーだったらしい。
基本的に、他人の奥さんの顔を見ていけないのだ。
そのような時代に、位の高いおっさんが(かなり老齢とはいえ)個人的に、主人が外出中、奥方ひとりのときに会いに行って、四方山話などできるだろうか?
本文には、「時々こうして絹を届けている」と書いてある。
何度も通っているのだ。

こんなこと、現代でも常識はずれだって。
北方謙三氏は、主人の留守中、人妻に会いに行ったりしてるのかしら。

バカバカしくなったので、もう2巻から読まないぞ。
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2008年09月07日

カール・ラーソンが好き。

カール・ラーソン画集(タッシェン)

カール・ラーソンが好き。
スウェーデンの田舎における、滋味あふれるカントリー・フレーヴァーがいい。
「長くつ下のピッピ」のアストリッド・リンドグレーンとか、映画監督のラッセ・ハルストレムも同様、スウェーデンの作家たちには、厳しい自然が、箱庭的おもちゃ世界に還元されていくような、共通した楽しさがある。

もちろん、スウェーデンを代表する画家としてすごく有名だけど、このアーティストは日本でもっともっと人気が出そうなんだけどなぁ。
例えばこういったエッヂの利いた、平面的なイラスト的表現っていうのは、アルフォンス・ミュシャをはじめとして、2Dアニメーションが好きな日本人にはこたえられないと思う。
あと、私が指摘するまでもなく、やっぱりラーソンにはある程度ロリータ・コンプレックスがあるよね。少女性とコケットリーが同時に存在するいくつかの作品には、ときたまドギマギさせられる。

画集なら、美術書をはじめとして、コストパフォーマンスの良い書籍が魅力の Taschen 社版をすすめたい。
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2008年06月18日

児童文学「穴 HOLES」を読んでみた。

穴 HOLES

大人も楽しめる児童文学という口コミの、「穴 HOLES」を読んでみました。
無実の罪で地獄の更正キャンプに送られた、肥満の少年のサバイバル生活。同時に、少年の祖先が呪術師に呪われたり、悲運の恋人たちのエピソードも語られる複雑な構成。

児童文学のくせに、映画『暴力脱獄』や『アルカトラズからの脱獄』を彷彿とさせるような、強制労働や、鬼教官、サイコの所長などなど、典型的な脱獄映画的描写が楽しめます。
実際、『暴力脱獄』を下敷きにしてると思うくらい似てます。

いたるところに伏線が散りばめられていて、その全てがちゃんとラストに回収されます。この手際の見事さには、なかなか関心しました。

本作の続編、「」、「歩く」も発売中とのことです。
ラベル:児童文学
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2008年04月03日

アーネスト・H・シェパード「くまのプーさん」のスケッチ

The Pooh Sketchbook (Winnie-the-Pooh Collection)

これ、妹の蔵書なんですが、彼女は海外に住んでるので、勝手によく参考にしています。ザマミロ。

「くまのプーさん」の原作をご存知でしょうか。
アーネスト・H・シェパードという人が挿絵を描いていたのですが、非常にセンシティブで繊細な絵で、私も大好きなアーティストです。
ディズニーのアニメと比べても断然に勝っていると思います。
クリストファー・ロビンの描写がとくに素晴らしく、実は彼の息子がモデルのようです。

アーネスト・H・シェパードによるプーさんスケッチ

そして、彼のペン画の元になったスケッチを紹介したのが本書「The Pooh Sketchbook (Winnie-the-Pooh Collection)」(洋書)。
絵を描く者としては、すごく参考になります。

あの「たのしい川べ」も彼の手がけた作品ですね。
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2008年04月02日

武器

武器 歴史,形,用法,威力

資料用に買った本です。
マール社から出版されている、「武器―歴史,形,用法,威力」。
この本、けっこうでっかくて3000円位します。厚みも電話帳の1/4くらい。
原始的な棍棒、槍、刀剣から、現代の銃、戦略核ミサイルや科学兵器までを網羅しているヴィジュアルブックで、見てるだけでもかなり楽しいです。
例えば、銃などの機種を羅列していく…というわけではなく、武器としての概要や用法などを、体系的に幅広く解説しています。
なかでも、刀剣については詳しく、例えば西洋では両刃でまっすぐの剣、東洋では片刃の反った刀が主であり、中東やインドなどではその中間の形になってたりなど、各地のものを比較すると、なかなか勉強になります。
「盾とカモシカの角を組み合わせたインドの奇妙な武器」やメリケンサック、「オートバイのチェーンを即席の武器として使う」などなど、変わった記述も多いです。
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2008年03月13日

中井英夫著「虚無への供物」を読みました。

虚無への供物

日本の探偵小説「三大奇書」、もしくは「四大奇書」に数えられるという、中井英夫著の「虚無への供物」を読了。
60年代の作品だけど、すでにこの作品がメタミステリのハシリになってるんですね。
複数の探偵による推理合戦が異様な熱を帯び、極度にベッタリとした油彩画のような、濃密すぎる内容に、読書中は軽く頭がおかしくなります。
ぼくはたいへん気に入りました。
ちなみに、「三大奇書」には他に、夢野久作の「ドグラ・マグラ」、小栗蟲太郎の「黒死館殺人事件」があります。
もちろんこれらも大好きです。
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